ひとりごと

煙草に関するあれこれ パイプフィクション

煙草に対する誤解と偏見について

煙草に対する世の中の誤解と偏見がひど過ぎるので、少し、パイプを嗜む人間から、そのおかしな点を炙り出してみたいと思う。

 

 タバコをやめられなくて苦しんでいる 

 

シガレット愛好家である。シガレットは、なぜか肺喫煙が主流というか、昔は、「肺に煙を入れないのはダサい」というヤンキー文化のようなものが日本に蔓延していた。本当に美味しく煙草を喫いたいなら、口腔喫煙でそっと喫うの正解だ。肺、つまり内臓から直にニコチンを素早く摂取し、わずか数秒で脳内へ行き渡らせる、みたいな喫い方をしたら、依存症になっても仕方ない。煙草は、本来、口腔喫煙なのだと個人的には思う。

 

 

パイプタバコとシガレットの違い

ふつう、ひとがタバコと言われて、頭に思い浮かべるのは、あのコンビニに売ってる箱に入ったタバコ、シガレットだろう。

シガレットは、ヤンキーたちの間では、「ふかしはダサい」「肺に入れないのは格好悪い」というド根性村人思想のようなものがあって、肺までたっぷり煙を吸い込むのが良しとされていた。そういう時代があった。刹那を生きるヤンキー達は、肺までしっかり煙を吸うという体に悪いことをするのが彼らにとっての粋なのだ。

ところが、煙草・喫煙というものは、本来、口腔喫煙であって、肺喫煙が特殊なのだと個人的には思う。煙草の歴史を史実に基づいて、紐解いて検証する暇もないから、ただの思い付だが、どう考えても、煙草の煙を肺に入れるのは、体の負担になり過ぎて良く無い。煙草の煙は、香りを口腔喫煙で楽しんでいるだけで、ニコチンも穏やかな形で摂取されて、依存もしにくい。

シガレットに一度、依存すると、確かにあの少し間があいただけで、煙草無しでは居ても立ってもいられなくなるような焦燥感があったりする。煙草無しでは生きられないかのような。しかし、口腔喫煙でパイプを喫っていると、煙草に対する満足感もあるし、そもそも、煙草を2、3日やめておいても、焦燥感などわいて来ず、ゆるりと禁煙していられるのだ。

内臓から直にニコチンを摂取して、わずか数秒で脳にニコチンを補給するような喫い方をしていると、そりゃあ、どこかおかしくなるだろうと思う。それに、シガレット依存者は、あまり煙草が美味しいと思った事はないという。そんなまさか。パイプタバコは、ほんとうに香ばしくて、美味しい。

「煙草を美味しいと思った事はない」これは、ニコチン依存者の戯言であり、本当に煙草を愛する喫煙家は、心底、煙草を美味しいと感じているし、煙草を楽しんでいる。変な煙草に対するイメージを流布するのはやめて頂きたいところだ。

 

うちの家族は、シガレットの紙の焼ける匂いを、「煙草の匂い」と誤解していた。現に、パイプタバコの香りを、「すごい良い匂いがする!!」と叫ばれた経験を持つ。「いや、それ煙草の香りなんだけど」と言っても、信じて貰えない。そう、ふつう、みなさんが「煙草臭い」と思い込んでいるものは、実はシガレットの、巻いてある紙が燃えて焦げた匂いなので、臭いわけだ。煙草自体は良い香りがするものなのだ。パイプタバコを喫ったあとの灰の香りは、ほぼ無臭である。

 

 

シガレットは、吸うと「かあああ」っとなって興奮するが、パイプタバコは鎮静作用があるのか、とても心が落ち着く。まった別物と思えるくらいに違うものなのだ。それにシガレットだって、香りを楽しむように上手に喫って、口腔喫煙すれば、それなりに美味しいと感じる。

 

本来の煙草の良さ、がまったく世に知られることなく、シガレット文化が大量生産・大量消費文化と結びついて、煙草が負のものとして喧伝されてしまっている。これはかなり危険な兆候である。

人類と古くから結びついてきた植物の、一側面が歪んだ形で伝わり、喫煙という文化が片隅に押しやられてしまっている。これは一体、何を意味するのだろうか。

都市のビルの中は、本当に息苦しいというか、何か生きた心地を喪失していくような感じがする。ほっと煙草に火をつけ、煙を吸ったり吐いたりするというのが、ごく自然な人間的な営みに思えてくる。都会のコンクリートジャングルの中では、『植物・火・煙草』のような自然側のものは、ほっと人心地をつけるのに役立つ代物だったはずだ。

ずっと人類のトモダチだった煙草という植物が、これまで片隅に追いやられている現代社会には、どこか歪んでいないか。

もちろん、煙に対する何等かのアレルギーなどを持っている方たちに対する配慮は当たり前だが、やって当たり前だ。私も、知らない人の前で、いきなり煙草を取り出して火をつけたりはしない。

 

シガレットは、かなり色々添加物も入っているみたいなので、依存性を増すものが何か入っているのではないかと憶測している。「禁煙したくても、出来ない」というのは、かなりの異常事態だ。なぜなら、本来、煙草は、「禁煙したい時に好きなだけ禁煙できる」ものだから。現に、パイプたばこは、いつだってやめておける。(個人差はあると思いますが)

禁煙したいというバカげた努力をしている喫煙者諸君。そんな無駄な努力はやめたまへ。禁煙しようなどと、アホな思い付は捨てたまへ。シガレットは肺喫煙をやめて、口でふかしておくだけにしたまへ。それか、シガレットなど捨ててしまって、葉巻や煙管やパイプを吸いたまへ。ただし、煙草に依存してしまうような汚い喫い方はしてはいけない。パイプタバコは品良く喫うものだ。

企業戦略としての「紳士の嗜み」とか、「裕福な層の上品な趣味」みたいなイメージでパイプを売るのは、何か恥ずかしいからやめて欲しいと昔から、私は思っていた。パイプは、煙草が本当に好きな人のものだ。そこに例の紳士の嗜み、というか、伊達男のイメージで売るのは、こちらが見ていて恥ずかしかった。ところが、今になって思うのは、やはり、パイプはきちんとマナーを守れたり、喫煙に対して真摯であったり、パイプの面倒な作法も習得して綺麗に煙草が喫える人たちによってこの良き喫煙文化が、(かなりマイナーだが)守られているのも感じる。やはり、パイプを喫うなら、品よく、汚く喫うな、と言いたくなる。なぜか?答えは、「そういう喫い方の悪い層の人たちがパイプ界隈に大量に入ってくると、必ずパイプや煙草の質が下がっていく」ということが発生するからだ。というか、これだけ喫煙率が下がっているので、そういう事はあり得ないか。むしろ、パイプ文化が廃れてしまわないように、どんどんパイプ好きの人、増えて欲しいですね・・・・。

 

 

 タバコがやめられなくて困っている人へ。

いちど、3か月~数年間、禁煙するといい。禁煙は、何度失敗してもいいから、とにかく禁煙してみようと試みることが大事。最初の24時間が過ぎるのが辛いだけで、あとはそれほど辛くはない。禁煙でいちばん重要なのは、タイミングである。禁煙するタイミングじゃない日に禁煙に入ろうとしても、なかなか続かない。なぜか、すいっと禁煙が続く日があるので、そこを見つけるといい。

 そんなどうやって見つければいいのわからんわ!!という反応が予想される。だから、手探りで、探せ、と言いたい。何度も、禁煙開始日を設定して挑戦すれば、「あれ、なぜか今日は禁煙しやすい」という日が見つかる。手探りで探すしかないのだ。

 とりあえず、完全に体からニコチンを抜き、3か月間くらいは禁煙して、肺喫煙をしてボロボロになった体が修復されるまで、我慢をして欲しい。まあ、3か月で治らないなら、もっと。1年でも2年でも。煙草でボロボロになった体が戻ったら、次は、パイプタバコや葉巻に変えてみるといい。

 

重要な点を再度あげておく

・煙草は、肺喫煙をやめて、口腔喫煙にしたほうがタバコの味をよく味わえて、ゆったりとニコチンが効いてくる。そして、口腔喫煙にすると、タバコをやめた時のあの焦燥感や渇望感がまったく無くなる、あるいは薄くなる。

・口腔喫煙にすれば、タバコを2、3日やめておいたりするのが容易い。1か月間くらい禁煙したりも出来るくらい。煙草に対する依存性といったものをあまり感じなくなる。(ただし、いくら口腔喫煙でも、あまりにも喫い過ぎたりしたら、それは依存症になってしまうのは当たり前です)

肺喫煙で内臓から脳にわずか数秒でニコチンを到達させる、という方法は、シガレット特有なもので、人類はおそらくは、ずっと口腔喫煙だったのではないか??

肺喫煙をする時のように、短い時間で鋭く吸うのをやめて、軽い力で煙を口の中で遊ばせる。煙草は、クールスモーキングした方が美味い。

・パイプスモーカーの中にも、重度のニコチン中毒者・煙草依存症者は存在しているが、大方のパイプスモーカーは、タバコにそれほど依存していない。ふつうに喫わない日などがある。どこの界隈にいっても、これが酒だろうが、コーヒーだろうが、甘物だろうが、一定数、何かに依存してしまう人はいるようだ。

 

 

 

 

 

 

☆☆☆

 

煙草の離脱症状など、本来、そこまで辛いものではない。こういう文章を書いていれば、忘れるか収まる程度のものだ。そう、我は今、禁煙中なのだ。ただし、煙草大好き人間である我が、煙草をやめるわけがない。たんに、一時的な禁煙だ。

我は、モノホンの煙草好きであるがゆえに、たまに禁煙して、煙草に依存しないようにしている。本当に好きなら、依存はしないものなのだ。

我は、ようするに、禁煙するために、こういう文章をだらだらと書きしたためている。誰も読みはしないのだろうが、世界の片隅で、こうして文章を書いていると、妙な気分になってくる。

 だいいち、一人称が、我(ワレ)になってしまっている。自分のことをこれまで、我、などと呼んだことは、もちろんない。現代の社会生活を送る上で、自分のことを「われ」と呼ぶ人間などいたら、当たり前だがやばい人扱いされてしまう。「おいら」でもけっこう厳しいのに。いや、しかし、「おいら」は、少数とはいえ、確かに存在はしているから、市民権はそれなりにあるらしい。「われ」に至っては、市民権はない。それが「我々(われわれ)」になると市民権があるのだから不思議なものだ。まあ、どうでもいい事だ。

問題は、我が今、禁煙をしていて、禁煙の離脱症状で、多少、体が熱を持ってかあああっと熱いことだ。これは、なかなか楽しくて、気分が悪くなるものではない。むしろ、楽しい。これまで、煙草の喫い過ぎで、体温を上げることが出来ずにいた体が、熱をもっている感じがする。

禁煙するのが辛いのは、最初に1日間だけで、そこを過ぎれば、まあ楽だ。

 

繰り返すが、我は、煙草をやめるために禁煙しているのではなく、また美味しく煙草を喫うために禁煙しているのだ。たまに、こうして禁煙して体をリセットしてあげると、煙草が美味くなるからだ。

本当の煙草好きは、煙草に依存などしない。煙草に依存したら、やっぱりそれは不味くなるから。煙草とは、ほどよい距離感を保って、お友達でいることが大事なのだ。

我は、そう思う。

 

煙草を嫌いを、あえて人前ではっきり言う。機会さえあればいう、という人種がいて、我はそういう人種に対して、距離を置いて警戒するようにしている。我が喫煙者であるから、ではない。(ここで、人前ではっきりと煙草が嫌いという人、というのは、アレルギー体質の方や、喘息発作をもっておられる方たちの事ではない。そういう方たちは、はっきりと煙草の煙は嫌いだ、ダメだ、と仰ってもらって当たり前なのである。そういう方達の権利はしっかり守られなければならない)だいたい、良識のある人は、煙草が嫌いだとか、煙が嫌いだ、とか言わない。煙草を喫う権利はあるのだし、マナーさえ守ってもらえれば、ことさら「煙草が嫌いだ」とかいうことは、他人を傷つける可能性があることをよく熟知しておられるからである。たんに、自分がタバコの煙が嫌いだから、という理由で、煙草が嫌いだと言える機会をいつも窺っているような人種は、状況が状況なら、いじめに加担したりするような輩なのである。正当性が、道徳や理性に基づくのではなく、「なんとなく弱者を攻撃してもいいような状況だったから」という理由で他人を攻撃出来てしまう人種である可能性が高いのである。