ひとりごと

このブログはパイプフィクションです

パイプの本数

持っているパイプの数が少ないという人がたまにいて、なんだか羨ましいと思った事がある。

10本に満たないパイプの数で満足できている人、である。

カゴの中に無造作に5~6本のパイプが放り込んである、という感じで、そのうちの特に4本くらいはかなり使いこまれていて、2本くらいが、外出用というか、人前では綺麗なものを持っていたいという心理が働くのか、見かけが比較的綺麗なものだった。

たったそれだけのパイプの数で、事足りるのか、私にはよくわからない。十分にパイプは乾燥しているのだろうか、とか、心配してしまう。が、当人はまったく満足しているようで、パイプを完全に道具とみなしているのがわかる。

潔い。

私も、彼のように、パイプはまず喫煙のための道具で、あまり審美的価値に重きを置かないタイプのパイプスモーカーではある。しかし、やはり多少のフェティシズムのようなものはあって、実用品として、道具としての美しさは追及しているようだ。

古井由吉という作家がいた。透徹した文体の、極めて禁欲的なところから文が湧いて出ている文章家で、古井氏の過去の「近影」が写されたものを見ていると、作業机にパイプが2本あったのが目についた。かなり使い古されたパイプで、噛む部分も酷く(あるいは見事に?)変色している。2本のよく使い込まれたパイプが、これもまた完全に道具として使われてきた喫うためだけの作業用パイプといった趣きがある。

古井氏がどれくらいのパイプを所有されていたのかはわからないが、写真を見る限り、いつもよく見かけるパイプが映されている事が多く、それほど多くのパイプをコレクションする必要性を持たない方だったのではないかと予想している。

 

5~6本のパイプだけで、長いパイプ人生を送っているという人は少ないのだろうと思う。「どうしてもパイプは増えてしまう」「なぜか気づいたらパイプが増えていた」などと言われるくらいだから。

そういう10本に満たないくらいのパイプで、パイプ収集には満足してしまって、あとは煙草を喫うだけだ、という風になってみたいものである。

齢85になって、いちどはパイプコレクションを手放してしまったのに、いまだに至高の1本に出会うかもしれない、というおかしな期待があって、たまにパイプを買っている。今は、もうこの年齢だから、買った分は、必ず手放すことにしているので、増えはしない。が、減りもしない、というわけだ。

 

そういえば、私もパイプを2本をしか所有していなかった時代があった。まだ若い頃で、パイプを喫い始めたばかりで、金もなかったから、買えなかったのだ。さすがに1本だけでは、すぐにパイプが濡れてしまって、味が薄くなるから、もう1本を買うために書籍などを売り払って、2本を交互に喫った。今みたいに何でもかんでも大量生産される時代ではなかったから、本を売るのもそれなりの金になった。

そういえば、2本だけで、どうやって私はパイプを楽しんでいたのだろうか。金がなく、貧しい暮らしをしていたが、当時は煙草無しではとても生きていく事が出来ないと思い込んでいた。そこから長い年月が経って、部屋がパイプで満たされるくらいにパイプを買えるようになったときには、もうその2本のパイプはどこかへ行方不明になっていた。

惜しい事をした、のだろうか?そういうパイプこそ、持っておくべきだったのかもしれない。

とにかく、あの若かった頃に、たった2本のパイプで、煙草を喫って恍惚とした事はしっかりと覚えている。あの頃は、本当に煙草が美味かった。今の煙草の質が落ちた、とか言いたいわけではまったくない。若くて気力と体力が充実している方が、煙草の味は美味いと感じるものだ。年衰えると、少しの煙で満足するようになる。が、その満足も、きっと若い頃に比べたら、薄いものなのだろう。

それでも、やはり、煙草は美味い。