ひとりごと

このブログはパイプフィクションです

煙草の依存性について6

結局、何であっても、過度の依存というのは危険であるという結論に至る事となった。

嗜好品は、適度、適量、適切に。

まるで冴えない標語のようだ。

が、大事な事は、常に、誰でも知っているような事だ。

 

パイプは、趣味と言われる訳も、合点がいくだろう。

パイプは文化なのだ。

半分は、煙を味わいつつ、半分は、パイプの美しさに浸り、思索をひろげる。物思いに耽る。一日を終えるための儀式であり、一日を振り返りつつ、あれこれと物を考える甘美な時間。大人は、問題に対して、甘い幻想を抱いて逃げるわけにはいかない。現実的に物を考えるのに、あまりに辛いこともあるから、パイプ煙草というトモダチがいるのである。

お気に入りのパイプを手に入れた時のパイプスモーカーの喜びっぷりは半端ない。

ベッドの脇に置いていて、見つめながら眠るパイプスモーカーもいるそうだ。

半分は、パイプという器というか、物語を楽しんでいる。

喫うのに手間がかかるし、片付けもしないといけないし、掃除も面倒だ。だが、それが良い、というのがパイプだ。

それらはすべて、依存しないための防護柵の役割を果たしていたのだと、ようやく気付いた。インスタントになってしまったら危険なものはいっぱいある。現代性の特徴のひとつに、インスタント、というものがある。忙しくなって、量だけ大量に増えていき、中身はスカスカで依存させてくる。それが現代の特徴です。

 こういう言葉は使いたくないが、いわゆるヤニカスと呼ばれる方々は、ニコチン供給が全てなので、『パイプというもの』には、はじかれてしまうのだろう。彼らはパイプには「出会えない」。

 それにしても、パイプ煙草にあるあの感じは何なのだろうか。電子タバコでは絶対に満たされない何かが、パイプにはある。

(シガレットの悪口を書いてしまったかもしれないが、吾輩は、実はシガレットだってけっこう好きである。ただ喫わないだけだ。たまにシガレットを買って、喫いもせず、封も切らずに、旅行鞄などに入れて置いているだけ。)

 

吾輩自身は、パイプは審美的な側面よりも、道具としての側面を大切にしている。美しいから、という理由でパイプを購入する事はない。でも、パイプは、どうしてもただの道具だとは言い切れないところがある。パイプを、まさに道具として、道具的に使う人もいるが、そういう人でも、たんなる道具以上の愛着を持っている。

インディアンが持っているパイプは呪術用の道具みたいに見えるが、現代のパイプ作家の作るパイプも、どこか呪術用の道具に見えない事もない。

吾輩も、時々、喫う場所もないのに、なんとなく、パイプとパイプ葉とマッチを、ひょいっとポケットに入れていく時がある。まるで、お守りみたいに。はるかいにしえの、古代人たちは、なんとなく動物の皮を腰に巻いて、パイプと葉っぱを入れて森の奥に入っていっていた気がするのである。

 

パイプの面倒臭さが、パイプ煙草の良さを保っているんだろうと思う。依存者が購買層に多いと、供給される商品もひどいものが出来上がってくる。企業がおかしなものを売り始めたら、買う側が、買わない事が大事だ。もう吾輩は、良い煙草しか買いたくない。

 

よく考えたら、パイプというものは、時代に反逆している。現代では、1個の商品が、100年も長持ちしてしまっては困る。経済がもたないからだ。なんでも常にインフレだ。拡大していかなければ、資本主義はもたない。だから、企業は、ある程度の年数で壊れるような商品を開発しないといけなくなる。ちょっと昔の機械製品などは、メンテナンスもなしでもう50年くらい動き続けているものを、吾輩は持っていて、使っていたりする。信じられるだろうか。メンテなしだ。メンテなしで、どこの部品を変えることもなく、現役で使えているのだ。そんな商品を出してしまったら、企業は倒産だ。これも仕方ない事ではある。

ところが、パイプなんて、大事に使えば、本当に100年くらい使えてしまう。ふつう、ビンテージといえば、50年前なら、立派なビンテージと言えるが、パイプの場合は100年も前のものを平気で使う人がいる。50年、60年も前の使い込まれたボロボロのパイプが、レストアすることで新品同様になってしまう。これは、パイプ業界、どうやって食っていってるのか心配になってしまう。これだけ喫煙人口が減ってきて、大丈夫なんだろうか。

 

やはり、吾輩はパイプ煙草が大好き過ぎる。パイプを愛でるのが楽しい。たまの休日に、映画を見ながら、パイプのメンテナンスや掃除をするのは、もうめちゃくちゃに楽しい。

 

そうこう言っているうちに、もう吾輩は、パイプの掃除だけしていればいいような気もしてきた。それだけで楽しいから。次にタバコを喫うのはいつになるのだろうか。もう何日も喫っていない。まさかこのまま喫わない、なんてこともあるのだろうか。

 

次に喫うのが楽しみだ。それが、来世で、という事にならなければいいが。